日本石材工業新聞社は平成25年10月に創業60周年を迎え、同じ年の12月15日号にて記念すべき第2000号を発行いたしました。その際に、読者の皆様より「石材新聞にまつわる思い出」を募集しましたところ、全国各地より多くのご投稿をいただきました。ここに、寄せていただきましたご投稿内容をご紹介いたします(同じ内容を石材新聞2000号にて掲載しております)。改めまして、ご投稿いただきました皆様、誠にありがとうございました。

 貴新聞にお世話になってもう既に数十年が経とうとしています。入社当時は業界の汎用性に富む情報源はほとんどなく、貴新聞はどちらかと言えば唯一の貴重な無くてはならない教科書的存在だったように懐かしく思い出しているところです。
 知らない事を教わり視界が広くなれた事はもちろん、知っていても理解や判断の程が足りないところを時には埋めてもらったりもしました。そういう意味でも、貴新聞の役立ちがあったからこそ石材業界での仕事を維持し、今日までどうにかやって来れたのではと顧みています。(鳥取県鳥取市)

 当社は明治30年(1897年)創業以来116年目を迎えました。毎月3回の新聞を楽しみに拝見しております。平成12年11月14日に港石材工業組合として貴社を訪問しお世話になりました。その時購入したポスター「御先祖様への報恩感謝供養の心を形にする…」が13年経ちますが店の正面に貼ってあります。
 また第1570号にその時の写真、記事を載せて頂きました。平成16年4月21日には貴社の吉沢穆様に「石材業界の現況と勝ち残る店」という講演をして頂きました。平成21年第1850号には石製の永代供養塔を東京まで取材に来て頂き、くわしく写真入りで紹介下さり誠に有難うございました。
 平成25年第1996号では、庵治石ソムリエ養成制度に港石材工業組合の若者4人を参加させ、産地の状況、情報を研修する事ができました。写真入りで詳しく解説頂き、皆喜んでおり、感謝申し上げます。また、新商品の記事により防草マサ、光触媒等購入しました。ジェイワックスの研修会も実施致しました。これからも石工の技術、開発は進んでいきます。新聞情報で早く発表頂ける事を期待しております。 (東京都港区)

 私にとり「石材新聞にまつわる思い出」は何といっても、「石の汚れ・あきらめないで」というタイトルの基に、貴紙上に通算100回にわたり、私の「石物語」〜石材ケア・メンテナンスの旅〜を連載させていただいた事です。この間、幸い健康にも恵まれ、一度も休むことなく、無事に連載コラムを終える事が出来ました。
 申し上げるまでもなく、私がそうした連載を創(はじ)めた当時、この分野は、「えっ…石材ケア、メンテナンスって」といった風情でもあり、言ってみれば、物珍しさも手伝ってか、貴紙の連載がはじまり、諸マスコミなどにより時折のお尋ね、オファーも入りました。
 当時、近藤記者(退社されていますが)の、慫慂に答えて、その連載カラー版と言える「事例集」として小冊子「“石物語”石材ケアの今04〜05」を、貴社より出版していただいた事(この種の書き物が、僅少の為でしょうか…?現在でも時に、ご要望をいただいています)。創業60年、2000号の経年からすれば短い期間ではありましたが、この分野への目覚めに、何らかの貢献の一助が出来たのではと、思い出です。(愛知県名古屋市)

 石材新聞に載せてもらった事。たくさんの同業者と知り合えた事。知識や情報が増えた事。奥井さんと出会えた事。(東京都東久留米市)

 全国の石材業界の情報を知る事ができ、役に立っております。(静岡県島田市)

 石材を扱い出してすぐ訪問した時、色々と教えてもらった事。上海福寿園の私の手記をそのまま掲載してもらった事。色々と発信している中で新しいことにチャレンジしている事をいつも応援して頂き、ありがとうございます。(岡山県倉敷市)

 「より新しく、より役立つ情報の提供を通して石材業界の発展を目指す」、この理念にあるように新聞として、かなり役立たせて頂いております。新聞や報道に近道はない、常にねばり強く取材活動を展開して頂いた結果として60周年を迎えられたように思います。
 インターネットが急速に普及し、多メディア化が進む中で、新聞に出来る事、新聞にしか出来ない事、新聞にしか出来ない物が求められているように思います。今まで、多くの情報を伝える物は、新聞だけでしたので、新聞を通して知る事が大事だと思います。(茨城県桜川市)

 岡崎に修業に行き、そこで全国の先輩、後輩、同期に出会いました。今では技能グランプリなどに出場し、全国に仲間もできました。そんな方々が石材新聞に取り上げられ、活躍しているのを拝見すると、自分も「がんばろう」という気持ちになります。(静岡県浜松市)

 組合の旅行や総会を取り上げてもらって組合活動に弾みがついた事。(静岡県焼津市)

 薬師寺玄奘三蔵院(石工事全て担当)竣工後、先代社長様に取材に来てもらいました。(奈良県大和郡山市)

 2007年の石材新聞に賀春として閻魔不動を載せてもらい有難く思いました。(愛知県岡崎市)

 会社を記事にしてもらった事。(広島県呉市)

 楽しく為に成る記事を毎号心待ちにしております。出雲石灯ろう、全盛期を迎えるに当たり貴社の指導、山口社長、石川記者、松井記者、スタッフの皆様のおもかげが思い浮かばれます。なつかしいです。(島根県松江市)

 私の子供の頃(祖父の代)から、この新聞は我が家にありました。また、弊社も偶然ですが、初代(祖父)が“万成石材㈱”より独立したのが、昭和28年で60周年となります。こんなに永いおつきあいと、創立60年という偶然に改めて感激しました。
 時々、記事にして頂き有難うございます。この記事で“万成石”を皆様に再認識してもらえるだけでなく、自分なりにも冷静に評価でき、有難く、感謝々々です。(岡山県岡山市)

 石材業界に携わる素晴らしい情報源が石材新聞です。業界全体が活気あふれる、先をよむ業界紙として、期待しています。大変なお仕事だと思いますが、いつも届く記事を楽しみにしています。(兵庫県淡路市)

 1.当社イベント「春の大感謝市」紹介記事、奥井記者が取材に来てくれて、いつも現場の様子を詳しく載せてくれるので嬉しいです。
 2.震災後の「マンスリー特集レポートⅡ石材商社」、各社の対応や取組み、苦労などを知って共感したり、元気づけられたりしました。(山形県山形市)

 先代社長様の時代から、ずっとお付き合いさせていただいており感謝申し上げます。常に親切ていねい・身軽なフットワークで、弊社の取材やら各団体や組合活動の情報賜り、それらのご苦労に対し心より御礼申し上げます。(埼玉県本庄市)

 石材新聞を購入するきっかけは、当時松井様が再度再度来店され、丁場だけでなく墓石卸をするのであれば、視野が広がり、墓石の型も年々に変わる傾向になっているので参考になりますよと言われ、購読する事になりました。(香川県高松市)

 石材新聞にまつわるというより、代表の山口君との付き合いが長いので、思う所があります。時期が来ると、突然「広告お願いします」と嬉しそうな顔をして山に現れます。酒をおごってくれると言うのですが、今まで一度もおごってもらってないです。そろそろ年末ですので楽しみな1ヶ月です。石も新聞も人柄で買って頂くからお互いがんばろう。(愛知県岡崎市)

 私がこの業界に入ったきっかけは石材新聞社さんです。今から19年前、私は大学受験を控えておりました。受験が迫った12月、父が仕事中の事故で腰の骨を折るという大怪我をしました。父の事故は一歩間違えると命を落としていてもおかしくないような事故でした。
 家族で話し合い、これから先に父に何かあった時に会社自体が大変なことになってしまう。大学へ行っている場合ではないのでは…と。その時に石材新聞社さんで紹介していただいたのが、岡崎市の犬塚石材本店でした。
 そこから私の石工人生が始まりました。4年間の修業生活は苦しいこともありましたが、よき先輩、後輩に恵まれ切磋琢磨し合って現在の私の基礎が出来ました。石材新聞社さんに紹介していただいたことがきっかけで、私の石工としての道が大きく変わったと思っています。初めて石材新聞に取り上げて頂いたのが、修業中に技能五輪で優勝した時でした。 
 それから何度か記事に載せていただく事も出来ました。そのおかげで、記事を見て頂いた方に声を掛けていただいたり、交流が増えました。大変有難く思っています。いつも記事を読ませて頂くと刺激を受け、前向きになれます。
 また、私自身記事に載せて頂くと、今度は刺激を与えられる人間になっていかなくてはならない責任があると私は思っています。これから先も石材新聞に載せて頂けるような石工であり続けられるように、精一杯がんばります。(三重県名張市)

 私が石材新聞を初めて読ませて頂いたのは昭和62年の秋でした。会社の入社試験の内定を頂き、当時学生であった私に〝業界を知ってもらう為の予備知識を習得してもらう〟ことを目的に自宅に郵送で届けられて手にした事を覚えています。
 当時はバブル期全盛で国内丁場、メーカーも売り手市場で、商品は海外の原石販売が主流で海外の製品は韓国製品が輸入製品の時代であった事を覚えています。
 あれから26年、墓石製品は中国製品輸入に移り変わり、墓石業界は今の状態となり、墓石業界人全員が“お墓の必要性を業界としてエンドユーザーに伝えていかないといけない時代”になりました。
 石材新聞さんには「これからも石材業界の為だけでなく、〝日本人のお墓の必要性をエンドユーザーに伝えていく〟ことも踏まえて、広い見識での石材業界の広報紙として更なる飛躍をして頂くことを願い、石材新聞のこれからのご繁栄を心から祈っております。(大阪府東大阪市)

 石材新聞さんといえば、昔も今も変わらぬ帯式の封がトレードマーク?です。私が幼少の頃(昭和40年代)は茶色で薄っぺらでしたね。当時、自宅に届く石材新聞のその封を開けるのは私の役目でした。というより、どうしても自分でやりたかったのです。破かないように、そっと新聞を引き抜き、帯の輪に腕を通して、力こぶをつくる要領で『ビリッ』 と破くのです。
 当時、岡崎の現役職人最古参の祖父に、毎度その様子を見てもらうのが、うれしかったのです。私の得意げな様子を見ると、祖父は必ず自分の力こぶを見せてくれました。小柄な祖父でしたが、鍛え上げた力こぶは見事で、無言でニコニコしている祖父の力こぶを触るのが、私の楽しみでした。
 今でも石材新聞が届くと、帯封を破らないように抜き取ります。同時に、優しく寡黙な職人だった祖父のことが思い出され、懐かしく切ない気持ちにもなりますが、貧しくとも良き時代だったことが思い出されます。(愛知県岡崎市)

 マンスリー特集座談会(平成25年1月5日号)に出させて頂いた事。一見、同じように見えてしまう「石材店」だが、それぞれの人生があって家業を継承している事を改めて感じた。(静岡県浜松市)

 私の子どもの頃から帯に巻かれた新聞があり、他界した祖父、父が見ていました。今では3代目の私が業界内の事や、石材店としての考え、自分自身が携わった事など沢山あります。特に自社の記事はこれから継ぐ4代目にも見せたいと思います。(埼玉県三郷市)

 まだ、出会ったばかりの石材新聞のスタッフ(奥井)さんに、夕方から夜の11時くらいまで食事もせずに事務所で取材を受けました。取材時間の大半がスタッフ(奥井)さんの業界のためのトークでした。ある意味、我々業界人より業界のことを熱心に考えている石材新聞(奥井)さんには脱帽です。(香川県高松市)

 昭和54年大晦日、先代が他界して以来、21才で後継した自身に対して、さまざまな情報を提供していただき、今日、何とか営業させていただいている事に感謝申し上げます。(愛知県岡崎市)

 建墓物語で弊社施工のお客様を取り上げて頂きました。一度施工させて頂いたお客様とは、しばらくはお会い出来ない方が多いのですが、この度の取材により、このお客様とは、家族ぐるみに近いお付き合いをさせて頂いています。このような深いお客様とのつながりは、㈱日本石材工業新聞社様のお陰と感謝しております。(兵庫県姫路市)

 石の本を紹介する「晴彫雨読」を連載する機会を与えていただき、折れそうになりながらも、何とか100回続けることができました。日中間の石材事情が大きく変化する中での連載となり、今後どのように石の仕事にとりくんでいくべきか、私自身大いに勉強することができました。この様な機会を設けていただいた石材新聞のスタッフの皆様をして山口社長に感謝いたします。(宮城県伊具郡)

 大阪での修業時代に読んでいた石材新聞。自分には無縁と思っていましたが、山口社長に出会い「修業時代の話を聞かせて欲しい」と言って頂き、都内のマクドナルドで長い間話をさせて頂きました。まさか自分が載せてもらえるとは…初めて自分の記事を読んで、 もっと頑張って石材業界全体を良くしていきたいと感じました。石材新聞は、石屋さんを元気にするそんな新聞だと思います。(香川県高松市)

 当社の記事を一面に掲載して頂いた事がとても嬉しかったです。(福岡県京都郡)

 新聞社主催の旅行にてたくさんの仲間が増えました。業界の色々な話等感謝します。(茨城県桜川市)

 〝業界を育てる石材新聞〟はじめて、取材していただいた時のことです。今から20年以上前。㈳日本JC石材部会長(第9代)になる前、『欧米メモリアル事情』等、海外の墓地事情とともに、業界初の女性部会長として掲載していただきました。今後ともよろしくお願い致します。(千葉県松戸市)

 弊社も一昨年60周年を迎え、そんな節目のタイミングで御社と取引を始めさせていただきました。あの業界有名紙の社長が、私からの広告案を毎回快諾してくれる「やわらかさ」に敬服しております。重みのある業界紙がこんな柔軟さまで持ち合わせているとはさすがであります。今後、さらに新しいことに挑んでいきたいです。(東京都豊島区)

 今年の10月で60年だって??正直、驚きました。何せ自分が生まれる前から創刊されていたとは吃驚ものです。創刊号とはどんなものだったか、ものすごく興味が涌きますね。石材新聞とは、自分の親父の代では全く知らない情報紙であり、他の新聞社とは大きく違い、新聞記者の顔が見える所以から、工業新聞記者にまつわる思い出と言い直させていただく恣意らしさはお許し願いたい。
 そもそも自分と工業新聞の出会いとは、故・石川記者からであり、自分が駆け出しの頃、よく総会等の祝辞の時、長曾称虎徹一刀両断とも思える毒舌染みた本音トークは忘れる事は出来ません。「うちの倅は車を買ってやんねー、石屋をやらねーってんだよ」。その当時は「口うるせー爺さんだな」「何か、痛てーところを突いてきやがる」、そんな事を思った時もありました。
 全国の石屋を駆け回り、石屋親父の愚痴を聞き、それを写真と共に情報紙として提供してくれた、多種多様の仕事内容。活動報告は、自分も行ってみたかった、見てみたいな、自分も同じ様な仕事をやってみたい、チャンスがあれば挑戦してみよう。大辛口だからこそ、自己啓発意欲をそそるお言葉は、今も心に焼き付けております。
 昭和の時代から平成へ。吉沢記者はとんでもない臭さを発する記者であります。ひらめきと思い付きの発想行動は周りの人達を悶絶させた事でしょう。そんなイメージですが、「トロッコ潔というペンネームは、ファンも多く、毎回読むのを楽しみにしているよ。JSFの時、あっトロッコがいたと言ってくれた人がいたんだよ。その時は嬉しかったねー、何せ、俺のファンがいてくれたんだもん。こっちは知らないのに向こうから声を掛けてくれたんだよ、そりゃー嬉しいさー」。
 ニコニコしながら自分との会話で純粋な気持ちを表してくれる、そんな吉沢記者が好きでした。社説とも取れるトロッコ記事は、謎賭けがありそうな、付加疑問、ファジー論的な内容は小雑誌にして欲しい感じで、その臭さをもう何度か嗅いでみたい気もします。石材工業新聞とは、書面だけではない、すこぶる本音に近い話がある、気持ちがあると感じます。 
 また、例え広告欄であっても、事と次第によっては有難い情報アイテムとなり助けてもらえる事も有りました。良くも悪くもなるべく自分に正直に石屋という仕事をさせて頂きたく思いながら、奥井記者を大兄として未来を彫刻して行こうと穿孔中であります。(埼玉県さいたま市)

 産地の魅力を一人でも多くの人に知ってもらいたいと相談したところ、その年のストーンフェア会場において来場者に特集号の新聞を配布されていました。ありがとうございます。石材新聞さんの行動力と出来る力に感謝。(愛知県岡崎市)

 15年程前に弊社で敷地面積30㎡のお墓を建立し、記事として載せていただいた時、その記事を見た施主様(御夫婦)が、たいへんお喜びになり「この立派なお墓を大切に守っていきたい」と言っていただきました。今はお二人とも鬼籍の人となられましたが、息子様がお参りをかかさず、お墓にはいつもきれいな花が供えてあるのを見ます。(埼玉県三郷市)

 「じゃあ」と気軽な感じで言ったのは、高校卒業してすぐの息子。行き先は、愛知県岡崎市。何も石屋のことは知らない息子は、5年間の修業の道へと旅立った…と、いったものの、その修業は、生半可なものではなかったようだ。その修業、親としては、様子が気になる。でも、電話など出来ない。そこで気がついたのが石材新聞。そうなんです。石材新聞を取り始めたのは、親バカなきっかけからなのです。
 新聞を見ながら、岡崎の産地で頑張っている息子の姿を想像して夫とよく話をしました。その息子も、5年の修業を終え、2年前に佐賀に戻り、今は石材新聞を見ながら一緒に修業をした人達が里に帰り頑張っていることや、岡崎の石屋さんの記事などを見て話しています。60年というのは石材新聞を読む側にも、いろんな歴史があり、親から子、そして孫へと受け継がれているようです。(佐賀県唐津市)

 技能五輪についての若手の技能者たちのがんばりに心打たれています。同じ、若手として活躍できるように糧にしていきたいと思います。(大阪府枚方市)

 我が社の様な「小さな会社」は業界の方へアピールするのはとても難しく、営業に行ける範囲も時間も限られて来ます。広告費や宣伝経費捻出も中々難しいです。しかし、メディアの力は強力なので、何とか石材新聞に載せて頂けるよう頑張っていますが…。
 「雪乃の連載」を載せて頂いた事が大変思い出に残っています。娘が記事を書く為に色々悩んだり勉強したり、時には家族皆に質問や感想を聞いていました。そして、全国の業界の皆様に声をかけて頂いたり、時には電話をしてくれる時も有り、とても宣伝効果がみられました。娘の事情で途中降板となりましたが良い経験になったと思います。ありがとうございました。これにこりず、我が社、北木島にもお約束通り、取材に是非来て下さいネ(岡山県笠岡市)

 石材新聞は毎号とても楽しみに拝見しています。私の若いころはインターロックの現会長・吉田剛様が、デザイン墓を発表されたころで、和型の墓ばかりであった当時、お客様の思いをカタチに込めることができるということ(今ではあたりまえになりつつありますが)が、とても斬新で輝いて見えたものです(そんな会長の考え方、アイデアにあこがれて全優石に入会を申し込みました)。
 吉田会長のまかれた種は、いま大きく育ち、デザイン墓は和墓風のものも作られるようになり、お客様の思いを石でいかようにも表現できるようになったのは素晴らしい進歩だと思います。石材新聞はこのような新しいニュースをいつも迅速に取り上げて頂き、ありがたいです。これはと思う記事の方には直接連絡をとらせていただき、資料を送っていただくなど、私の墓石小売の仕事に大いに活用させていただいています。
 また、いろいろなセミナーの募集案内も多く活用させていただいています。新しい情報を私共が学び活用していくことは、お客様からも良い反応をいただくことになり、当社の売上アップと同時に、顧客満足度の向上に大いに役立たせていただいています。石材新聞は私にとってなくてはならない情報源です。(三重県伊勢市)

 一番はやはり修業先を捜してもらったことですね。岡崎の者が岡崎の中で修業では甘えが出るということで庵治産地の村井重友石材店を薦めて頂きました。庵治では岡崎のように工学院のような学校が無い為、住み込みの養成工は少なく、全国的な友人はできませんでしたが、岡崎から来たよそ者に周りの人達は温かく迎えて頂き楽しい修業時代を過ごせました。
 大卒でも初任給は4万1千円。3食込みだったので、他にお金がかかるわけでも無い為、3年半の修業の帰りには50万円の貯金ができた程でした。温かく迎えて頂いた分は身体で返すべき、地元の行事等には多く参加し、綱引き、野球のチームに入り、綱引きでは最高四国大会第3位まで行きました。
 練習も毎日2時間くらいしていました。でも一番は岡崎と違った技術を教えてもらったことですね。庵治の石は硬いので、その硬い石に適した道具の使い方。それに帰ってから親に教えてもらった岡崎の加工技術をプラスして今の自分の技術があります。
 また、これも新聞に取り上げて頂きましたが、カンボジアアンコール遺跡の修復活動です。大学での造園学、庵治での仏像彫刻、岡崎での灯篭や水鉢の加工技術、まだ親が若く自分を出してくれたこと、全てを持ってアンコール遺跡に丸9年に渡り、行ってきたことも良かったことですね。(愛知県岡崎市)

 岡崎の展示会の時初めて御社を訪れた時の事をよく覚えております。また、自社に帰ってきてまだ間がなく、業界という概念がない中、石材新聞を見て全国の同業者が頑張っているんだと自覚したことを思い出します。(山梨県甲府市)

 昭和30年代の半ば、私が小学生だった頃、家業(墓石屋)の工場兼事務所は、家族のすまいと一緒になっていた。学校から帰ると職人さんたちが穏やかな笑みを浮かべながら、あたたかく迎えて声をかけてくれていた。振り返るとまさに「ALWAYS三丁目の夕日」 のような光景であった。
 当時、事務所や茶の間に無造作に置かれていた「日本石材工業新聞」を見る機会も多く、石都岡崎の展示会等で受賞した灯篭等の紹介を何気なく読んだりしていた。当時、家の周辺は鉄工所、タンス店、自転車店、駄菓子店等小さな商店があったが、同じ町に同業者はいなかったので、他の墓石屋さんの事は何も知らなかった。家業に関係した情報を与えてくれたのは唯一「日本石材工業新聞」だけであった。
 昭和30年代の後半(私が小学校の高学年から中学生の頃)になると、ちょうど家の仕事は手加工から徐々に機械化される時期であったが、同新聞紙上にも石工機械メーカーの広告が多く目立つようになり興味をそそられた。
 ある日、学校から帰ると両親が見知らぬお客さんと談笑中だったので、伏し目がちに前を通り過ぎようとしたら「こら、お客さんにあいさつをせんか」と叱られて恥じ入っていると「この人は石材新聞の方だよ」と紹介された。
 いつも見ているあの全国的な新聞社の人が、なんでこんな田舎の石屋に用事があるんだろうかと不思議に思ったが、新聞社の人と両親の親しげな会話を聞いていて「うちの店は全国的な新聞社の人も遊びに来てもらうぐらい認めてもらっているんだな」と少しばかり誇らしく感じたことを鮮明に覚えている。その後も折にふれ新聞社や新聞記者のことを何度も耳にして少なからずいい印象を持つようになって、それから後に郵送されてくる石材新聞を以前にも増して熱心に読むようになっていた。
 中学生の頃には、おそらく経営者の父親よりも新聞を興味深く入念に読んでいたと思う。それが私をして「自分が将来家業(石屋)を継ぐのは宿命だ」となんとなく思わせるようになった一因であることは疑いない。
 時を経て、果たして家業を継いだ私は最近まで石材新聞が届くや否や、焦るように帯封を引きちぎり誰よりも先に目を通す習慣がついていた。これは、少年期の家業の風景と心情が今でも心のどこかにあるからだろうと思っている。
 いつまでも墓石業界の存続と共に日本石材工業新聞があたりまえのように身近にあり続けることを望むものです。(鹿児島県鹿児島市)

 『日本石材工業新聞』の歴史は、いうまでもなく先駆けとして「石都岡崎」において発信していることに意義があり、確信が持てる、そうしたことは「石材業界」も同様であります。
 そういえば私のところに昭和5年発行の岡崎石材協同組合発行の「石製品カタログ集」が二冊あり、去年「岡崎の展示会」に持参し関係者数人に見ていただきました。このように『日本石材工業新聞』をとり巻く環境は非常によく「新聞業界」や「石材業界」、いわゆる関係業界やそれをめぐる多くの人々にもよい影響を与えました。
 それまでのわが国の「石材業界」は、相当永い間「石材」という素材に真摯に向き合いひたすら石材加工や関係した「技能」を駆使し繰り返し活動してきました。世界では「石材」は多く使用され、中世以前から城や教会、橋や都市全体という大きな使われ方もあり密接な関わりを持っていたから日本より多量に扱われてきました。こうした記事をもっともわかり易く紙面を大きく、多く、しかも美しく紹介したのが「石材工業新聞」でした。
 イタリア・ローマの石材紹介、イギリス、フランスも多く紹介されました。そうしたことが永く続くと私たちは「墓石関係」の仕事も「古い石造物、都市や街並み」も「石材」から出来ていると考えるようになり、身近に考え接したいものとなりました。
 実際に今月二日中央ヨーロッパから帰国しました。このような考えをめぐらせ発展的に行動すると「石材」そのものの理解が面白く大きく広がります。メディアの影響により「石材業界や関係者」の理解が深まるということです。それは新しいものについても同様で、石材業に文化活動を取り入れなくてはなりません。
 かつての日本の旅行業者が世界の観光名所を考える時、「世界文学全集」を最重要視しました。それらは、今日でも多くの名所がBSでも紹介され「世界遺産」として登録されています。複数の話題提起ということでメディアの存在が大切です。
 平成22年まで私が会長であった「埼玉県石材業協会」が「創立40周年記念式展」をそのとし6月に開催した時、「日本石材工業新聞社」様から心からなる丁寧な御祝詞をいただき有難うございました。 (埼玉県本庄市)

 35年前に修業先で3年の勤めを終え、実家に戻る時に、修業先の職人さんから石材新聞は必ず読んだほうが良いと言われ、実家に戻ってから現在まで愛読させて頂いております。そのご縁で岡崎での石造社殿等を製作して頂きました。石材業界の様々なことを知る事が出来たと思っております。(長崎県佐世保市)

 石材店を営む嫁の実家に婿入りしサラリーマンを辞めて、この業界に入り10年経ちました。仕事は社長に教わるものの、職種が、がらりと変わってしまった為なかなか理解できずにいました。そんな中、事務所にいつも届く〝日本石材工業新聞〟が私の参考書となり、この業界のこと、新しい商品、石屋の道具のことまで詳しく載っていて非常に助けられた思い出しかありません。
 その中でも『心あたたまる—「接客」のかたち』はどういう心がけでお客様と接するかという、大切な部分を教えていただいています。これからも70周年、80周年…と発行して若い世代にも情報を提供してください。(青森県八戸市)

 会社員を辞め、石彫りを仕事にしようと考えていた頃、貴社が記事として掲載してくださったこと。まだ趣味での石彫りであったが全国から幾つかの「石彫ふくろう」の注文があった。これがきっかけで石彫作家としてデビューできた。(愛知県岡崎市)

 入社当時、右も左も分からぬ私に社長から言い渡された研修課題「石材新聞を読め!」会社の書庫から過去数年分の石材新聞を引っ張り出し、毎日毎日黙々と読んでました。当時の私には書いてある内容の殆どが意味不明でしたが、今の私があるのは、石材新聞のおかげです。これからも業界が元気になる新聞を期待しています (岡山県笠岡市)

 思い出は、私が岡崎修業を終えて6年後の平成16年に、当社へ取材に来て頂いたことです。石見遊山のコーナーで、先代のインタビューと一緒に私が本小松石の原石の傷を探っている作業場の風景写真を載せて頂いたことを、今でもとても嬉しく覚えています。今はブログやフェイスブック等があり、いろんな方が石の事を載せてくれるというのも嬉しいですが、石材新聞という業界紙、紙媒体に載る喜びは、一味違った魅力があると思います。
 私は岡崎、あじストーンフェア等のイベントで、ほぼ全てのブースの写真を載せているフォトレポートの紙面が大好きです。これは用事がありストーンフェアに行けなかった方がちょっと行ったような気分になれる、その場の様子がとっても分かると思うのです。全ブースを載せるのは会長のこだわりと聞いた事があり、山口社長は「変えたい…」と言っていましたが(笑)、これは是非変えないでほしいと思います。 (神奈川県足柄下郡)

 1.ある日、会社の電話が鳴ったので事務の女性がとったのですが、こちらの応答には何も答えず電話の向こうで大きな声のおじさん達がすごく楽しげに大笑いしながら話している様子。よくよく話を聞いていると、私が石材新聞さんのM記者とお墓がどうのこうのと盛り上がっている。
 この女性は「ははーん」とピンときたようで、私が石材新聞さんにお邪魔した際に、何かの拍子に携帯電話の発信ボタンを押したんだろうなぁと。実況中継していることを知らない私は、M記者と艶んな(?)トークで大盛り上がり。帰ってから赤っ恥でした。
 2.製品の記事を載せていただけることになって、その取材で福島県に。前乗りで入って翌日から郡山を中心に3軒のお客様を訪問し、使い心地やお写真など撮らせていただく予定でしたが、お客様間が思ったより離れていて、取材が終わった時は京都に帰る新幹線は出た後でした。
 仕方なく、宿を急遽手配して、下着を買って、後は郡山の夜を楽しむだけ。温泉に入って、地元の方で賑わう小料理屋さんで京都訛りを珍しがられ、調子に乗って泡盛(福島で)までストレートで飲んでしまって、正体不明のままその夜床に入って、次の日はしっかりと2日酔い。
 朝一番の新幹線を乗り継ぎ、京都に帰った後その匂いのまま出社して、頭を抱えながら記事の原稿を書きあげました。そんな、勝手にしんどい目をした取材でしたが3本の記事が新聞に載せてもらえた時はちょっと感激でした。
 3.石材の研磨について技術的なことを伝えていけないでしょうか、と記事のアイデアを発散し合っているときに「それ面白いですね」とノッてしまったのが「石材研磨の基礎知識」のそもそもの発端でしたが、まさか20回以上も続くことになるとは思いもよらず、毎月締め切りが近付くと社内の技術者に「はよ原稿くれ〜」と矢の催促。
 出てきた原稿は専門用語の連発。なので、日本語を日本語に訳す作業と、イラストを書く作業を素早くこなし、O記者にギリギリに送稿。おかげで研磨の勉強と、イラストを描くソフトの勉強が同時に行えスキルがメキメキと上達。なかなかハードな2年半を過ごしましたが、記事が特集の別冊になって出て来たときは嬉しくて、嫁さんや子供にまで見せて「ドヤ顔」を決めました。
 4.石材新聞さんに通うようになって20年近く。出張なんてめったに行かない私は、唯一に近い出張先なので、あれも聞こう、これも教えてもらおうと毎回張り切って新幹線に乗り込んでいます。
 大先輩に教えてもらった西岡崎から新聞社への道も、色々歩いてみて、今は地元の人が使うような細い道で通っています。記者の方には業界のことはもとより、地元の隠れた名店みたいなのも教えていただきました。
 なので休みの日に京都から、家族を連れて新聞社近くの鰻屋さんに食事をしにいったり、激辛四川ラーメンを食べたり、すっかり岡崎ファンになってしまいました。最近はカツや炒めものなど、何にでも「かけて味噌」をかけるので、嫁さんからは「たまには違う味で」と懇願されています。
 5.石材新聞さんに電話をすると、Kさんにお電話に出ていただけるのですが、すごく明るい声で応対していただけるのでその声を聞くだけでこっちも元気をいただけて、何やら目的を達成してしまったような気になってしまいます。たまに直接O記者が出ていただくことがありますが、これは効率的にはOKですが、気分的にはやっぱりKさんかなと。(京都府宇治市)

 石材新聞は人と人をつないでくれます。そして、空間や時間もつないでくれます。しばらく会っていないけれど、自分が若いころに一緒に働いていた人や青年部の活動で知り合った人など、懐かしい人が紙面に登場してうれしくなることがあります。
 私自身、石材新聞を見たという同級生から「結婚おめでとう」というメッセージをもらったことがあります。石材業は親と子をつなぐ仕事であり、子と孫をつなぐ仕事です。迷子になった愛や、故人が届けられなかった何かを届ける仕事です。そして石材新聞は、私たち石材業に携わる人と空間と時間をつないでくれる、なくてはならない業界のコミュニティーです。(大阪府茨木市)

 弊社では、先代の社長の頃より日本石材工業新聞を購読させて頂いております。まだ、自分が社長になる前から、石材についての知識を新聞からも色々と学ばせて頂いておりました。
 この新聞を通じて、身近な情報はもとより、遠い地域の情報もよくわかりますので、他の地域の方々との交流のきっかけになったり、田舎では石材関係の最新の情報がなかなか得られなかった時代にも、この新聞がとても役に立っておりました。
 そして、日本国内だけでなく、世界の石材関係の様子を知ることができ、それにヒントを頂き、想像を膨らませては、ものづくりをするきっかけにさせて頂いております。
 弊社で長きに渡り人気の当社オリジナル墓石のデザイン考案にも大きなヒントを頂きました。これからも、石のそれぞれの性質を生かした製品づくりに積極的に取り組み、幅広い分野での『石』の可能性を探究し続けていきたいと考えております。(島根県出雲市)

 新聞に掲載ごとに大きくしていただき、充実した業績をあげる事ができた思い出があり、感謝の思いで投稿しました。
 地域に貢献していくことが信用を増す素である公職活動の原点として、「家業(会社)にも励んでいる」。掲載された当初は昭和51年2月5日号の1面トップ記事である。県連設立には新聞社の助言・ご協力のおかげであった。私自身の永田清一氏等 業界の方々と交流させていただくキッカケとなり大きな力を頂いた。
 山口佳夫記者がその4面に〝設立を祝す〟記事を掲載いただいた。「技術・技能向上」は紙面が示す通り基本である。その後、滋賀県議会議員に2回当選した記事を掲載いただいている。その中に長男が岡崎産地への修業の記事も載せていただき、このご縁も新聞社のおかげである。
 平成20年11月15日号の「こんにちは石材新聞です!!」にその後の当店の記事を掲載いただいている。当社は貴社の記事を全て参考にしながら会社経営を行っており、全従業員に目を通すようにしている。今後もあらゆる分野の記事を期待しております。広告記事も参考になります。(滋賀県栗東市)

 毎号届く新聞記事は、石材業界を知る貴重な情報源になっています。自社においても近年、加工卸業から小売・現場施工へと業態が変わってきた状況で、最新の施工方法(耐震免震)・機械・道具(IT)などの記事に目を向け、日々の施工技術向上に役立てています。最近、法律面に興味をもちクレームなどのトラブルへの対応において、法律的にはどういう事かを「石材店のための法律講座」で勉強させて頂いています。(群馬県みどり市)

 私は12年前の30才の時に、それまで勤務していた電力会社を退社し当社の跡取りとして入社しました。電力業と石工事業。デスクワークと現場仕事。発注側と受注側。まったく違うことばかりで何を指針に進めば良いか分からない日々でした。
 そんな時、私の指針になったのが日本石材工業新聞でした。それから12年間愛読し続け、石材業界の情報から人脈形成まで本当に助けられてきました。そんな私のバイブル、これからもさまざまな情報提供をお願いします。(山形県山形市)