「本小松石」が産出される神奈川県の真鶴町は、神奈川県南西部の真鶴半島とその周辺で構成される町で、小田原と熱海の中間に位置しています。北西の方角には箱根があり、直線距離にして14キロほどの距離。その直線をさらに北西に延ばすとちょうど富士山に当たります。

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本小松石の採掘場にて

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本小松石の採掘場にて

真鶴半島は切り立った海岸を持つ溶岩台地で、箱根火山の外輪山の溶岩流が海に押し出されて形成されたといわれています。このとき、地表に流れ出した溶岩が急速に固まったものが安山岩で、真鶴の山側で採石される本小松石、海側で採石される新小松石はこの安山岩に分類されます。

本小松石産地の歴史は大変古く、奈良時代に真鶴地区で採れたと思われる石材が岐阜県養老郡の竜閑寺に使われていたともいわれています。また真鶴町にある「石工先祖の碑」(真鶴町指定文化財)には、平安末期に土屋格衛によって真鶴の石材業が始められたと記されています。

鎌倉時代になると都市づくりや社寺建造の需要が高まり、当時は「伊豆石」や「相州石」などと呼ばれて重宝されたそうです。そして、室町時代に入ると、小田原城、江戸城をはじめとする築城にも使われ、真鶴の石工の技術も進歩していきました。

真鶴が石材産地として有名になったのは江戸時代で、幕府の命により、徳川御三家(紀州、尾張、水戸)及び松平家、黒田家などが真鶴に丁場を開いて石材を江戸に供給。東京・港区芝の増上寺の石材見積書の中に、初めて「小松石」という名前が見え、江戸時代には「小松石」という名前がすでに使われていたことがうかがえます。

小松石という名前は真鶴駅の北側に小松原という地名があり、それに由来するものと考えられているそうです。江戸以降の明治、大正、昭和にかけても、東京の建築物や墓石に数多く使われることで、銘石としてのステータスは揺るぎないものになっていくとともに、輝石安山岩の本家として「本小松石」という名称が定まっていったようです。

東京大学工科本館、宮内省図書寮、早稲田大学記念講堂など、明治から昭和初期にかけての建造物に小松石が使われましたが、次第に建築材としての需要は減少していき、その一方で、墓石材としては不動の地位を築いていき、戦後も需要は伸び続けていきます。

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真鶴町に建立されている石工先祖の碑(碑面の高さ143㎝×横47㎝)

今でも東京都内の名刹や霊園などを見て回ると、本当に数多くの本小松石の墓石に出合うことができます。著名人の墓石にも数多く使われており、美空ひばりや力道山のお墓も本小松石で製作されているほか、天皇御陵などにも使われています。

本小松石は青系・グレー系などに分けられますが、その中でも濃いものや薄いもの、赤味や縞模様の入るものなどもあるようで、色合わせには時間と労力が必要となってきます。それだけに高い技術力と経験が求められるわけですが、今も採石業者・加工業者あわせて約30社の方たちが協力し、切磋琢磨しながらブランド銘石「本小松石」産地をしっかりと守り続けています。

資料:真鶴の文化財(第2集・石材業編)