今回は香川県高松市の庵治町・牟礼町に長く続く庵治石産地の歴史についてご紹介したいと思います。この地区で産出される庵治石は日本を代表する高級墓石材の一つとして広く知られています。

庵治石に関する最古の記録は京都にある石清水八幡宮の『建武回禄記』といわれています。この中に「暦応2年(1339/室町時代初期)、京都男山の石清水八幡宮の宝殿、拝殿などの再建のため、新しく切石を据え付けた。その石材は前例にならって讃岐の鴨部から運んできた」という記述が見つかっているそうです。

讃岐の鴨部とは現在の香川県さぬき市志度町鴨部のことで、庵治町・牟礼町から近い地域。平安時代末期に鴨部も牟礼も既に石清水八幡宮の領地になっていたことから庵治石が使用されていたことがうかがえます。また、「前例にならって」という表記があることからも、それ以前の平安末期頃から庵治石が使用されていたと考えられます。

さらに、平安時代の法令集である『延喜式』(927年に完成)の中に、「車一両に積み込む石の量は、大坂の石七千九百二十寸、小石九千寸。讃岐の石は六千三百寸、小石は七千二百寸」とあるとのこと。讃岐の石=全て庵治石とは限らないかもしれませんが、少なからず使用されていたこともうかがわれます。

庵治石が本格的に採掘され、使われ出したのは天正16年(1588)の高松城築城からといわれています。年号が刻まれた庵治石の製品第一号は寛永20年(1643)に松平頼重が讃岐高松藩に入封したときに製作されたという二基の墓標。延宝2年(1674)に製作された庵治石製灯籠も確認されており、この頃に石の細工技術も定着したものと考えられます。

庵治石は、江戸時代には主に庵治町久通りと牟礼町久通り境付近の少し入ったところにある御用丁場と呼ばれる丁場から採出されていたとのこと。讃岐藩松平家の所有である御用丁場は、明治以降には筆頭家老だった大久保家の所有となり、今も大丁場として知られています(庵治石は大丁場、中丁場、野山丁場、庵治地区という4つの丁場で採掘されています)。

文化11年(1814)に讃岐松平藩の手で屋島東照宮の造営がはじまり、地元の石工だけでは人出が足りないということで、和泉(現在の大阪)から石工を招き、庵治石の採掘・運搬・加工の仕事にあたったそうです。当時の石工たちは屋島東照宮の工事を1年で終わらせほどで、仕事が早く、相当な熟練ぞろいだったといわれています。

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屋島から眺める庵治石産地の風景。今も200社以上の石材業者が産地の伝統・技術・誇りを守り続けている。

庵治・牟礼地方において江戸時代中期からは製塩も盛んになり、塩田の石垣、石釜の釜石等にも庵治石が大量に使用されるようになっていったそうです。また、明治期には火薬を使った採石方法が始まり、さらに昭和30年以降には機械化の普及、墓石需要全体の増加も進んでいき、庵治石産地も飛躍的に発展。昭和47年には庵治町・牟礼町あわせて採石業者数99社、加工業者数345社となり(庵治町史)、石材の一大産地として広く認識されるようになっていきました。

目が細かく青味を帯びた美しく趣深い質感を持つ銘石「庵治石」。現在も200社以上の石材業者が庵治石を大切に活かしながら、産地に息づく伝統・技術・誇りをしっかりと守り続けています。(山口康二)

参考資料:『牟礼・庵治の石工用具』(牟礼町教育委員会)/日本石材工業新聞連載『庵治石の魅力 教えます』

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